巨大な話
明石海峡大橋を通ったとき、
「こんな巨大な建造物が宗教施設じゃないの信じられないな」
とふと思った。
ピラミッド、パルテノン神殿、アンコールワット、どれも素晴らしい建造物で、と同時に宗教施設として“神(または神格化された王)のために”造られたものだ。
「こんな建造物を造ります」と言われたときに、当時の民衆が「いや無理でしょ〜」とならなかったのは“神のための”努力だからである。
現代に目を向けると、現代社会で造られる建造物はほとんどが宗教に関係の無いもので、建設の難易度が高いタワーやビル、海峡横断橋などは特にそうだろう。
建てる理由は、利便性や経済性、カネや権威のため、様々だが神のためという発想はそこには無い。
なのに人は、計画を立て、人を集め、集められた人は毎日少しずつ計画を履行し、信じられない大きさの建造物を完成させる。
神のためではない。
恐らく、「どこまで神に近づくことができるか」を試しているのだ。
我々は、世界の形を変えることで自らをこの世界の神そのものに在らしめようとしている。
ここで勘違いしないで頂きたいのが、この文章は人類への警告とか自然への讃歌とかそういうことを主張している訳ではなく、
ただ「なぜ人は巨大な建造物を建てるのか」を分析したいだけであるということだ。
人は人として生きる限り、好奇心や開拓心を持たずには居れず、今日「〇〇学」と名のつくものは全てこの好奇心や開拓心が極まったものなのだろう。
そしてその学問の分野で、俺たちはどこまでいけるんだ?と思ってしまう。
宇宙開発や先端物理学は時として「何の役に立つんだ」と批判される事があるが、
これは到底的外れな批判と言わざるを得ない。
人は人である限り、自分たちがどこまでいけるかを試してみたくなるものなのだ。
先ほどの批判に対する反論はたったひとつ、
「人間だからしょうがない」のみである。