潜る話

海に潜っているときは孤独になる。

外界の音はほとんど聞こえず、自分の呼吸音ばかりが頭に響く。

自分の身体の周りは水が覆っている。

隣にはバディやチームメイトがいるが、目元とジェスチャーでしか意思疎通できない。

 

だが、不思議と独りではない。

むしろ、限られた伝達手段しかない状況が連帯感を強くする。

そこには空気のあるところで言葉を交わすより強いコミュニケーションがある。

自分たちだけが異世界に取り残されたような気持ちになる。

そこには恐怖や怯えではなく、心地よい孤独感が漂う。

理由の話

 

ブログからめちゃくちゃ遠ざかってたけど久しぶりになんか書こうと思います。

 

10日ほど前に引っ越して、今は池袋まで15分という感じの所に住んでいる。

去年まで在籍していた大学を退学して、東京の大学に転学するというのが引っ越しの理由で、

なかなか慣れない環境の中、生活の全部が変わることになる。

それなりの緊張と、そして期待の中で春を迎えるのは何年ぶりだろう。

これからの大学生活は良いものにしなくちゃと強く思う。

 

東京に来て久しぶりの再会というのも多くて、その中で小説家を目指している人と会った。

会話の中で「なぜ僕らは絵を描いたり、文章を書いたりするのか?」という話になり、そういえばなぜだろうと思った。

 

物心ついた頃から絵を描くことが好きで、正直もう理由なんて考えないまま描き続けてきた。

でもこれからの人生で絵を生業にしようと言うからには、理由を探るべきかもしれない。

 

どういう時に絵を描きたくなるかを考えたとき、「印象深い出来事があったとき」…かなぁと思い、それはなぜ?と考えた。

 

おそらく、僕は絵を描くことによって物や出来事の仕組みや印象を頭の中で再構築して、より深く捉えようとしている、のだと思う。

「絵を描きたい!」と思って描くときは基本的に資料とかは見ずにボールペン一本でバーッと描き上げることが多くて、それは頭の中にある、印象の残滓をかき集めるのに夢中になっているからなんだろう。

 そういう風に描いた絵は、整ってはいないけどあとで見たときには魅力的に見える。

 

逆に、漫画やアニメのキャラのイラストをきっちりかっちり描くぞ、と思って描くとなんだか味気のない薄〜い絵になりがちで、

それは多分誰かがデフォルメしたキャラの外側をなぞっているだけで、自分の頭の中でキャラを自由に動かし切れていないからだ。

次はそれを意識して、あえてきっちりかっちりは無視して直感的に描いてみよう。

 

引っ越してから、自分の部屋に真っさらの白紙も無い、パソコンも無いという状態なので、絵を描きたいという気持ちが不完全燃焼だ。

ルーズリーフやノートに描くこともあるけど、罫線が引いてあるからなのか、やっぱり筆が自由に動かない。

罫線が引いてあると、文字を書く紙だ!と無意識に判断しているのかな。

だとしたら、それは僕が自分で思ってる以上に真面目に授業を受けてきた証拠…なのかもしれない。

 

巨大な話

明石海峡大橋を通ったとき、

「こんな巨大な建造物が宗教施設じゃないの信じられないな」

とふと思った。

 

ピラミッド、パルテノン神殿アンコールワット、どれも素晴らしい建造物で、と同時に宗教施設として“神(または神格化された王)のために”造られたものだ。

 

「こんな建造物を造ります」と言われたときに、当時の民衆が「いや無理でしょ〜」とならなかったのは“神のための”努力だからである。

 

現代に目を向けると、現代社会で造られる建造物はほとんどが宗教に関係の無いもので、建設の難易度が高いタワーやビル、海峡横断橋などは特にそうだろう。

建てる理由は、利便性や経済性、カネや権威のため、様々だが神のためという発想はそこには無い。

 

なのに人は、計画を立て、人を集め、集められた人は毎日少しずつ計画を履行し、信じられない大きさの建造物を完成させる。

 

神のためではない。

恐らく、「どこまで神に近づくことができるか」を試しているのだ。

我々は、世界の形を変えることで自らをこの世界の神そのものに在らしめようとしている。

 

ここで勘違いしないで頂きたいのが、この文章は人類への警告とか自然への讃歌とかそういうことを主張している訳ではなく、

ただ「なぜ人は巨大な建造物を建てるのか」を分析したいだけであるということだ。

 

人は人として生きる限り、好奇心や開拓心を持たずには居れず、今日「〇〇学」と名のつくものは全てこの好奇心や開拓心が極まったものなのだろう。

そしてその学問の分野で、俺たちはどこまでいけるんだ?と思ってしまう。

 

宇宙開発や先端物理学は時として「何の役に立つんだ」と批判される事があるが、

これは到底的外れな批判と言わざるを得ない。

 

人は人である限り、自分たちがどこまでいけるかを試してみたくなるものなのだ。

 

先ほどの批判に対する反論はたったひとつ、

「人間だからしょうがない」のみである。

説得力の話

最近漫画について思ったことをまとめようと思う。思うまま書いているので推敲が足りない部分があればすみません。


漫画という創作物にとって最も重要な要素とはなんだろう。
僕は、「説得力」だと思う。
説得力とは、紙上で皆まで語られていないバックヤードの部分まで感じ取れるかどうか、ということだ。

登場する建物に説得力を持たせるとしよう。
まず、この建物の建材はなんなのか、何のための建物なのか、出入り口はどこなのか、など基本的な要素を満たした上で、
金持ちの企業のビルなのでエントランスが広く洗練されたデザインであるとか、ここ数年の間に建てられたから窓もトイレも広くて調度品も新品に近いとか、そういった深くまで練られた設定をそれとなく頭に浮かべながら描くことで真に迫る建物になる。

登場するキャラクターの場合はどうか。
年齢、性別、人種、服装、性格、能力、周囲の状況などは基本的な要素だ。
それに加え、
几帳面な性格なので身につけるアクセサリーは常に同じもの同じ場所だとか、手のマメから拳銃の名手だと悟られないためにいつもポケットに手を入れたままにしているとか、
そういうさりげない仕草や表情、服装などに納得できる理由や統一性を持たせることで説得力が出る。
同じようなポーズでも足の開き方や顔の角度などで性格が滲み出てくることもある。


このような「説得力」は、絵と台詞によって表現される。漫画には基本的に絵と台詞しか存在しないからだ。
僕の体感としては、絵7 : 台詞3くらいの割合で表現を担っていると思う(もちろん、それぞれが単独して表現しているのではなく、密接に絡み合っている)。
つまり画力は説得力の鍵を握る要素になる。しかし、画力が高ければそのまま直に説得力を裏付けるという訳ではない。
画力があれば表現の幅が広がるというだけで、どうしても画力が足りないのであれば、自分の描ける絵で説得力の裏付けが崩壊しないような漫画を描けばいいということだ。
例えば、ギャグ漫画だと真に迫る説得力よりも会話の掛け合いやテンポによって魅せるものが多いので、飛び抜けた画力や細かい描き込みはむしろ流れを邪魔してしまうことがある。そのために敢えて写実的な表現を避ける漫画家もいる。典型的なのがうすた京介先生だろう。

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この2つはうすた先生の作品だがそれぞれ別作品。対比させやすかったため例示させてもらった。
上の絵のように、写実的な表現でも上手く描けるのに、
下のような力を抜いた絵でも魅せるのが上手い。
絵だけでなく描き文字まで落書きのような雰囲気だ。
このように、力を抜いたりテンポを上げたりするのには柔軟に絵の雰囲気を変える必要がある。
抜くべきところでは抜き、描くところではしっかり描くという切り替えも、特にギャグシーンでは重要になってくる。
しっかり描いている部分で説得力を持たせられたなら、抜いた部分で説得力がひっくり返ることはまずないだろう。

まとめ。
漫画にとって重要なのは「説得力」である。
画面に描かれているもの全てに意味や文脈を持たせることで架空の世界が実体を持ち始める。
いくらデフォルメしても、いくら省略しても、この説得力の裏付けを崩壊させなければあとは純粋にストーリーや世界観、キャラクターで魅せることができるようになる。逆に言うと説得力という前提が崩れると途端に読者の頭には「?」が浮かんで、作者が見せたいものが曇ってしまうのだ。

大学の話

数ヶ月ぶりに大学に行く。
ニートフリーターと学生を混ぜて水で溶いたような生活もついに終わりの時が来たのだ。

僕は豆腐メンタルで有名なのだが、大学に向かう電車の中では決まって吐き気を催してしまう。そのせいか何時間大学にいても全く食欲が湧かない。
大学の知り合いに会いたくない。さっき乗り換える駅で元カノとすれ違ってしまった。ダメなタイプの別れ方をしてしまい今でも気まずい。サークルもここ半年ほど参加していないので気まずい。向こうはそうでもないのだろうが、僕は気まずい。
「気まずい相手」というのは僕の中で「敵」の部類に入る。憎んではいないが、手の内を見せてはいけない相手なのだ。表情を読ませないために大学に行くときは決まってマスクをしている。
前髪で目線を隠したりマフラーや襟で更に顔を隠したりする。足音を立てない。最後のは僕の普段からの癖でもある。

大学で多少は心を許している人もいる。片手で収まるほどだけど。
1人は隣の学科の同級生で、同じ授業も多かった。お互い「この大学、この学科はクソだ」という点で意見が一致している。僕と違うのは、入学の時点で大学生活に絶望しており、さっさと単位を取って大学院で巻き返すと決意していた所だ。そいつはもう授業に出る必要があまり無いので僕と同じ授業を受けることはもう無いかもしれない。
1人はさらに隣の学科の同級生で女の子だ。尻が軽いと噂だが(僕が見るところ事実だと思う)、いいヤツだ。こいつもこの大学が嫌いらしい。でも僕の大学生活復帰を一番喜んでくれた。
数えた限り最後の1人は、二つ上の女の先輩だ。正確に言うと先月に卒業したのでもう大学にはいない。可愛らしい見た目なのに言うことがキツい。でもそこが好きなところだ。最近この人の夢を頻繁に見る。辛いのでやめてほしい。

この大学に来て良かったことを考えよう。
一つ目、登り坂の歩き方を学んだ。駅から15分間登り通しの坂があるためだ。コツは、ふくらはぎの筋肉ではなく尻の筋肉を使うこと。こうして元々ぷりっとした僕の尻はさらにぷりぷりになり、刺身にすると美味そうな尻肉になった。
二つ目、クソ教師が生産される過程を知れた。僕は教育学部に所属している。つまり学部の全員が前提として教師になるつもりで大学に来ている。僕も入学したときはそうだった。数ヶ月後には「ああ、僕が嫌悪していたバカでクソな教師ってこういう風に生まれるんだ」と納得した。大学の時点で知れたので就職後に知るよりマシだろう。

たくさんの大学へのヘイトを溜め込んでいる僕は、それを糧にまた新しいヘイトを溜め込んでゆく。
全てを環境のせいにするのは良くない。でも、いくらかの原因は確実に環境にある。
もっと自分のやりたいことを極めることができる環境を求めて、僕は大学を変えることにした。生きがいみたいなものを探している。

描き方の話

最近結構しっかりしたイラストを描いてます。
やっぱ女の子を可愛く描くより、油絵みたいに景色とかを描く方が好きだなー。

明日か明後日には完成予定です。

描いてみて思ったけど、めっちゃ風景とか描き込むタイプの人ってすごい。
特に効率化された技術がすごいです。

上手い人ってやっぱ手の抜きどころが分かってるんですよ。
僕がTwitterでフォローしてるリアスさん(@23057)の絵を例に挙げて説明します
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この絵は1時間ドローイングで制作したものらしいです。
すごいですよね。これ1時間で描いちゃうのかよ!笑
でも、奥のビル街?や雲なんかはほとんど手数が入っていません。
それでも素敵な絵である事に変わりがないのは、手数の少なさに目が行きにくいからです。

この絵の一番のポイントは
奥の景色・手前の建物・女の子の赤のアクセント、
の空間的色彩的コントラストです。
まずそこがバシッと決まれば8割は完成したと言えます。

次に、目に近い(ピントが合っている)ものから描き込むのが基本なので、手前の建物の細かい描写を加えます。そうすることで、見る人の視線が多少動いても「細かく描いてある」っぽく見えます。

奥の景色の細かい描写にはあまり視線が行かないので、サッと一度で描いてしまうだけでいいんです。

つまり、完成図を頭に浮かべて「どこがポイントになるか」を考えながら描く、というのが大事です。

これができると、例えば3時間で描けと言われれば最初の1時間でこの絵の状態まで持っていって、残り2時間で全体を描き込むことができるのでかなり完成度の高い作品に仕上げられます。
逆に30分で描けと言われても、頭に完成図があるので描き込みは劣るけどポイントは押さえている作品に仕上げられます。
上手い人は描き始めて5分で完成形が見えてきます。

口で言うのは簡単ですが、僕もこのやり方が完璧にできているわけではないので、練習あるのみですね。



とりあえず今描いてるやつ頑張るぞ