理由の話
ブログからめちゃくちゃ遠ざかってたけど久しぶりになんか書こうと思います。
10日ほど前に引っ越して、今は池袋まで15分という感じの所に住んでいる。
去年まで在籍していた大学を退学して、東京の大学に転学するというのが引っ越しの理由で、
なかなか慣れない環境の中、生活の全部が変わることになる。
それなりの緊張と、そして期待の中で春を迎えるのは何年ぶりだろう。
これからの大学生活は良いものにしなくちゃと強く思う。
東京に来て久しぶりの再会というのも多くて、その中で小説家を目指している人と会った。
会話の中で「なぜ僕らは絵を描いたり、文章を書いたりするのか?」という話になり、そういえばなぜだろうと思った。
物心ついた頃から絵を描くことが好きで、正直もう理由なんて考えないまま描き続けてきた。
でもこれからの人生で絵を生業にしようと言うからには、理由を探るべきかもしれない。
どういう時に絵を描きたくなるかを考えたとき、「印象深い出来事があったとき」…かなぁと思い、それはなぜ?と考えた。
おそらく、僕は絵を描くことによって物や出来事の仕組みや印象を頭の中で再構築して、より深く捉えようとしている、のだと思う。
「絵を描きたい!」と思って描くときは基本的に資料とかは見ずにボールペン一本でバーッと描き上げることが多くて、それは頭の中にある、印象の残滓をかき集めるのに夢中になっているからなんだろう。
そういう風に描いた絵は、整ってはいないけどあとで見たときには魅力的に見える。
逆に、漫画やアニメのキャラのイラストをきっちりかっちり描くぞ、と思って描くとなんだか味気のない薄〜い絵になりがちで、
それは多分誰かがデフォルメしたキャラの外側をなぞっているだけで、自分の頭の中でキャラを自由に動かし切れていないからだ。
次はそれを意識して、あえてきっちりかっちりは無視して直感的に描いてみよう。
引っ越してから、自分の部屋に真っさらの白紙も無い、パソコンも無いという状態なので、絵を描きたいという気持ちが不完全燃焼だ。
ルーズリーフやノートに描くこともあるけど、罫線が引いてあるからなのか、やっぱり筆が自由に動かない。
罫線が引いてあると、文字を書く紙だ!と無意識に判断しているのかな。
だとしたら、それは僕が自分で思ってる以上に真面目に授業を受けてきた証拠…なのかもしれない。
巨大な話
明石海峡大橋を通ったとき、
「こんな巨大な建造物が宗教施設じゃないの信じられないな」
とふと思った。
ピラミッド、パルテノン神殿、アンコールワット、どれも素晴らしい建造物で、と同時に宗教施設として“神(または神格化された王)のために”造られたものだ。
「こんな建造物を造ります」と言われたときに、当時の民衆が「いや無理でしょ〜」とならなかったのは“神のための”努力だからである。
現代に目を向けると、現代社会で造られる建造物はほとんどが宗教に関係の無いもので、建設の難易度が高いタワーやビル、海峡横断橋などは特にそうだろう。
建てる理由は、利便性や経済性、カネや権威のため、様々だが神のためという発想はそこには無い。
なのに人は、計画を立て、人を集め、集められた人は毎日少しずつ計画を履行し、信じられない大きさの建造物を完成させる。
神のためではない。
恐らく、「どこまで神に近づくことができるか」を試しているのだ。
我々は、世界の形を変えることで自らをこの世界の神そのものに在らしめようとしている。
ここで勘違いしないで頂きたいのが、この文章は人類への警告とか自然への讃歌とかそういうことを主張している訳ではなく、
ただ「なぜ人は巨大な建造物を建てるのか」を分析したいだけであるということだ。
人は人として生きる限り、好奇心や開拓心を持たずには居れず、今日「〇〇学」と名のつくものは全てこの好奇心や開拓心が極まったものなのだろう。
そしてその学問の分野で、俺たちはどこまでいけるんだ?と思ってしまう。
宇宙開発や先端物理学は時として「何の役に立つんだ」と批判される事があるが、
これは到底的外れな批判と言わざるを得ない。
人は人である限り、自分たちがどこまでいけるかを試してみたくなるものなのだ。
先ほどの批判に対する反論はたったひとつ、
「人間だからしょうがない」のみである。